平岡篤頼文庫 / HiraokaTokuyoshiBunko



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平岡篤頼文庫 / HiraokaTokuyoshiBunko Last Updated 2020-06-23

解けない霙 ― 平岡篤頼先生に 

堀江敏幸     

 通信教育で知られる地方の出版社が、あたらしく文芸誌を創刊する。そんな因果関係のいまひとつよくわからない広告を母校の図書館の雑誌で見つけたのは、高校三年の秋だったと思う。予告どおり、年末の本屋の棚に白っぽい表紙の創刊号が一冊挿さっていて、抜き出してみると、表紙に井伏鱒二の名が刷られていた。文庫本と教科書でしか読んだことのない文学史的存在だとばかり思っていた作家がいまだ現役で、しかも連載をするらしい。軽い高揚のなかで私は該当頁を開いて、「神屋宗湛の残した日記」と題された作品を立ったまま読みはじめた。

 よほど前に読んだ小瀬甫庵の「太閤記」を、今度、何十年ぶりかに吉田豊の新訳で読みなほした。有名な合戦場の地名、武将の名前など、疎覚えに覚えてゐるだけで、豊臣秀次自刃後の記録はすつかり忘れてゐた。山城国伏見の学問所のことや、関白秀吉形見分けの記録なども、みんな記憶に無くなつてゐた。きれいに忘れてゐた。

IMG_5817.JPG 小瀬(おぜ)甫(ほ)庵(あん)は、私の地元である美濃に栄えた土岐氏とかかわりのある人物だから名前には親しみがあって、冒頭部分がすんなり入ってきたのはそのせいかもしれないのだが、言葉ひとつひとつに気張ったところはなく、ふつうの形をした文章が、ふつうに並んでいるように見える。ところが、文末がすべて「た」で終わっているにもかかわらずそれを同音として響かせない独特のリズムがあって、なにがどう作用しているのかわからないけれど、歴史の大枠にかがみ込もうとしている語り手の、一人称を使わない呼吸の魔法が、段落全体を一個の音楽にしているように思われた。作者井伏鱒二と重なるようで重ならない、微妙な位置にいる語り手は、まず、かつて甫庵の「太閤記」を読んだという体験を読者に伝える。甫庵の著書を原典で読み、細部の大半をきれいに忘れたのちに、吉田豊の現代語訳で読み返す。そして、この一節につづく箇所で、語り手はその忘れていた事柄のひとつである「関白秀吉形見分け」の記録をたどり、形見の品と形見を与えられた人物を再確認しながら、挙げられている品々についての記述が、太閤お気に入りの茶人であり大商人でもあった神屋宗湛の日記に見出される、と話を横滑りさせ、いつのまにか焦点を宗湛の日記そのものに移してしまう。

 私は「宗湛日記」を口語訳に書き直すことを思ひついた。但、宗湛の文章には茶道特有のわからない言葉が入つてゐる。だから不明なところ、退屈なところ、訳しにくいところを省略し、気に入つたところだけ書きとめることにする。自分の独りよがりの一種の遊びである。

 なるほど、これならおもしろそうだ。原典にあたるものを変奏して、たとえば『さざなみ軍記』のような展開になっていくのだろうか。なにしろ八十歳半ばにさしかかった大家の連載である。立ち読みではもったいない。そう思って、私は、「海燕」と題字の描かれた文芸誌を買って帰った。昭和五十七年一月号である。
 ところが、これはじゅうぶん予想していたことながら、直後から受験のどたばたに巻き込まれて、雑誌を定期的に読む余裕などなくなってしまったのである。年があらたまり、春が近づいた頃、私は幸いにもその井伏鱒二とも縁のある早稲田大学に入学した。上京してひとり暮らしをはじめ、あたらしい環境にやっと慣れてきた五月の連休過ぎ、久しぶりに書店を覗いてみたら、「海燕」の最新号が並んでいた。創刊号を手にしてから半年近く経過していたけれど、どうやら「神屋宗湛の残した日記」はまだつづいているらしい。最初だけ読んで放り出した後ろめたさもあったので、バックナンバーは図書館でコピーさせてもらうことにしてとりあえずその号を買って読んだ。いまにして思えば、晩年に作者を襲ったある種の混濁が関係していたのかもしれないのだが、展開というものの存在しない、あくまで並列的な言葉の運びと、連載の切れ目がいきなり註ではじまる大胆さに、私はやっぱり魅了されたのである。

註○関白秀吉が島津征伐をすませて薩摩から筑前箱崎まで陣を引いたのは(天正十五年)六月三日であつた。関白は箱崎を中心に方三里の地域に軍兵を置いてゐた。同七日の昼、神屋宗湛は寓居先の唐津から箱崎に出向いて行き、八日に関白様に御目見え申し上げた。茶堂として従軍してゐた宗及老の執成しであつた。
 ○同十日には、関白様が戦禍を蒙った博多の廃墟を御覧になるとのことで、箱崎宮の社頭のところからフスタ船といふ南蛮船に召されて博多に着岸された。このときフスタ船に同乗を許されたのは、宗湛の外にパードレ二人と、数人の小姓衆だけであつた。関白様は御機嫌よくて、博多衆たちが御進物を博多の浜で差上げると、その内から銀子一枚だけ御召上げになり、それ以外のものは博多衆に御下賜になつた。
 関白様はその夜、突如として人民たちをびつくりさせる命令を御出しになつた。キリシタン宗の布教は今日限り厳禁し、パードレたちを二十日以内に日本から追放すべしと命じた。ジュスト右近(高山右近)にも即日闕所追放を云ひ渡した。

 時代は天正十五年、宗湛は太閤付きの密偵のように動いている。いま読み返してみても、この箇条書きのような文章のつらなりのどこに惹かれるのか、うまく説明できない。「関白様は御機嫌よくて」といったつなぎのリズムだろうか。それとも、全体を統御している視点の、近くて遠い感覚だろうか。創刊号を手にしたときとそっくりな感覚をもてあましながら「神屋宗湛の残した日記」を読み終え、あらためて目次をたどると、「消えた煙突」という小説が掲載されていた。それが、まだ顔を見たこともない平岡篤頼先生との、実感を伴った最初の接触だったことになる。

 両国駅前広場で集合ということだったが、そんな広場があったっけかな、隣の錦糸町駅ならよく知っているが、この駅のことはほとんど覚えていないな、そう、たしか北側に一段低く、房総本線のあまり人影のない薄暗いホームが見えたような気がするが、この駅で下車したことはなかったかも知れないな。そんなことを考えながら、南口の改札を出て、駅の高架沿いに西へ歩くと、ガードの向こうに、たしかにだだっ広い広場がある。何台かのトラックや乗用車、それに一台のバスが停っている。自動きっぷ売場もあるし、広々とした構内の奥に改札口もある。幹線鉄道の始発駅らしい構えの大きさが感じられる。とはいえ、乗降客の姿はなく、いかにも寂れた感じか漂っている。

 動きのある冒頭。一人称を排した語り手が、「あったっけかな」「ほとんど覚えていないな」と、記憶の混濁もしくは欠落をかこちながら歩いていく。自分が忘れているのか、それとも最初から存在しなかったのか。タイトルに含まれる「消えた」という一語が、もうこの一節の言葉の運びに組み込まれていて、読者はまだ姿を現していない煙突の存在と不在を同時に感じ取り、かすかな不安を抱えたまま作品のなかへと足を踏み出す。語り手には、しかし平野良夫という名前かあって、語学教師の平野先生は、旧友たちと三十年前の「動員工場めぐり」に参加するために、この駅前広場にやってきたのである。ひとり、またひとりと懐かしい顔が集まったところで、一行は貸し切りの都バスに乗りこむ。物語は、現在進行中のバスツアーの模様と、平野が発表した三月十日の大空襲の夜をめぐるエッセイを、「入れ子」にして進展していく。かつて平野は、その工場の大きな煙突にのぼって騒ぎを起こしたことがあるという。彼にとっては忘れがたい事件なのだが、仲間のなかにはそれを記憶していないものもいて平野の記憶もぐらつき、曖昧になる。煙突は、あったのか、なかったのか。少年の頃、九死に一生を得た過酷な空襲と焼け跡は、本当にあったのか、なかったのか。
 平明な筆の運びの裏で、いろんな仕掛けと「動機」が隠されているらしいこの書き出しを読んですぐに思い出したのは、もちろん、「すつかり忘れてゐた」、「みんな記憶に無くなつてゐた。きれいに忘れてゐた」という、先の井伏鱒二の作品の冒頭だった。忘れたのか、忘れていないのか、あったのか、なかったのか。それを確認するためには、ある程度まで客観性の保たれたデータや証言が必要になる。しかし、そのおおもとになる「日記」や記憶が不正確なものだったとしたら、そこからなにが生まれうるのか。

IMG_5826.JPG それからしばらくして、この「消えた煙突」は芥川賞候補となり、学内外で平岡先生の名前を繰り返し聞かされることになった。早稲田大学フランス文学科の教授であり、文芸科を支えて若い才能を発掘し、「早稲田文学」の運営にも深く携わりながら、バルザックからクロード・シモンに至る広範なフランス小説を翻訳紹介し、さらに文芸批評もこなす多彩な人物としての平岡篤頼の仕事は、私自身のフランス語への関心の高まりに伴って少しずつ見えてきたのだが、膨大な数の教え子のなかで、最初の接触がフランス語の初歩ではなく、先生の「小説」だった者は、そう多くはないだろう。
 後期に入ってすぐ、私は平岡先生の担当クラスにもぐりこんだ。二年か三年の必修科目だったと思うが、定かではない。初日だったせいか狭い教室は満席で、いちばん前の列の廊下側にぽつんと空いていた席に座ってじっとしていると、艶のある豊かな黒髪をオールバックにした、肝臓でも悪いのではないかと心配になるような赤黒い肌の、なんとなくおばさん顔のやさしそうな男の人が姿勢よく入ってきて教壇に立ち、甲高いけれどあたたかいじつに不思議な声で出席をとって、授業内容にはひとことも触れずに「世間話」をはじめた。いや、私には世間話に聞こえたというだけで、枕にちりばめられた要素は紆余曲折を経て最後にひとつの落ちにつながっていったのだが、そのときは、たぶん避けて通ることができないと考えてのリップサービスもあったのだろう、「消えた煙突」をめぐる一連の騒動についても、たっぷりと語ってくださった。
 自慢話になったかな、と判断すると、すぐ自分に対して公平な突っ込みをいれる、ちょっと自虐的で目線の低い漫談の形を借りて、平岡先生は、しかし本気で学生に語りかけているように見えた。
「僕は大阪の生まれで、東京に出てきて、東京弁を勉強して、それからフランス語をやった。スタンダールか好きで、留学してバルザックをやって、それからヌーヴォー・口マンの翻訳なんかもして、言葉についてあれこれ考えながら、批評なんかも書いてきたけれど、このところ小説を書いてみて、ああ、自分かほんとうにやりたかったのはこれだった、もっと早く書きはじめていればよかった、と思ったんだよ。ずいぶん遠回りしたような気がするねえ。だから、君たちのように若いうちから、好きなことをこれと見定めて、そればかりやってみるのも悪くない。ほんとうにそれが好きなら、ほかのことなんて見向きもせずに、そればかりやってみるのもいいですよ……」
 口調はやわらかくても、なにが好きかさえわからずにいる若者にはずいぶんと高尚な話である。だから、これは、すぐに動き出せという純粋な励ましであるよりも、好きなことが見つかるまでの「遠回り」の大切さを説いておられるのだろうと私は受け取ることにした。語学をやり、教師をやり、翻訳をやり、いろんな経験を積んだあとでしかわからないものがあるとの感慨が、もしくはそれゆえの自負が、くしゃくしゃに崩れた笑顔にこめられていると思ったからだ。
 翌年、フランス文学科に進んだ私は、たしか二年生は履修できないはずの、アラン・ロブ=グリエの『ジン』を講読する授業にこっそり参席した。誰ひとり予習してこないのに、平岡先生は少しも腹を立てることなく、みずから原文を読み、みずから訳し、その訳にみずから感動して、うん、これはいい訳だ、メモしておこうなどととつぶやいて、手にした原書の余白に書き込みをする。学生たちはみな、横文字がその場で自在な日本語に転換されていく様を、驚きをもって楽しんでいればよかった。このときの訳読は、のち、『集英社ギャラリー 世界の文学〈9〉フランスⅣ』(1990)に収録された『ジン』の完訳に、そのまま生かされている。頁を開くと、平岡先生の声が、はっきりと聞こえてくる。

 シモン・ルクールの物語を純粋な小説的フィクションの範疇(はんちゅう)に分類することを、誰(だれ)にしろ、可能ならしめるようなものは何ひとつ――つまり、どんな決定的な証拠も――存在しない。むしろ逆に、この不安定で欠落の多い、というかひびのはいったテクストのあまたの重要な要素は、注目すべき執拗(しつよう)さで、したがって悩ましいくらいに、現実(万人の知っているこの現実)に符合していると断定することができる。そして、物語の他の構成要素が現実から故意に離れることがあっても、いつでもその手口はいかがわしいから、そこに話者の組織的な意図を見ないわけにはいかず、まるでなにか秘密の原因が、彼のそうした手直しや捏造(ねつぞう)を要求したかのようなのだ。

 井伏鱒二がきっかけで平岡篤頼の小説に触れた十代の若者が、この「プロローグ」に感応しないはずはなかった。私の夢想は、そこでふたたび「神屋宗湛の残した日記」の冒頭に立ち返る。というのも、小瀬甫庵の「太閤記」には、読み物としての粉飾も多いとされていたからだ。それを吉田豊の日本語に変換して読むとなれば、最初の粉飾にべつの粉飾が加わることになる。そこから出発して呼び寄せた「宗湛日記」にしても、後年の偽書という説がないわけではなく、要するに、井伏鱒二の最新作こそ、「不安定で欠落の多い、というかひびのはいったテクスト」になりかねない構造を持っていたのである。日記の記述を適宜自己流にアレンジして差し出せば、必然的に出発点となる真実がどんどん不確かになる。連載のその後の記述は、宗湛の言葉を「語り言葉に訳し」たものと、感想とも批評ともとれない微妙な註の、淡々とした組み合わせに終始し、翻訳なのか創作なのか、あるいは「神屋宗湛日記の残した日記」と題されたひとつの大きな枠を支えている書き手の、もっと種類の異なる虚構の一部なのかさえわからなくなってくる。ロブ=グリエの原書講読は、そんなふうにして、私の夢想をいろんな場所へ飛ばしてくれたのだった。
 フランス語を一語一語、ゆっくりと日本語に転換していく作業のあいまに、さまざまな作家の名前が挙げられ、講読は文学談義にすりかわる。私はその変転のなかで、固有名の響きあいにぼんやりと耳を傾けていた。雑談のなかでもっとも頻繁に挙がった名前は、シモンやデュラスといったフランス文学の作家以外に、夏目漱石、志賀直哉、井伏鱒二、小沼丹、古井由吉、後藤明生、安部公房、武田泰淳、筒井康隆など、『迷路の小説論』や『文学の動機』で取りあげられている書き手たちだった。つまり、ただの思いつきではなく、一貫した視点に基づいて選ばれた名前だったのである。

IMG_5822.JPG さて、平岡先生の遺稿から拾いあげられた本書『記号の霙』は、それらおなじみの作家たちの主題を、井伏流に言うなら「話し言葉に書き直した」ものと解釈していいだろう。もちろん、ここにあるのは書き言葉であり、書くことでしか表現できない論理の展開である。硬いものを柔らかくした、ということでもないのだが、本筋から離れていく枝葉の面白さ、諧謔の裏に潜む若々しさ、負けず嫌いと照れ屋の共存といった平岡先生の語りの特徴がそこここに響いていて、すぐ隣にいて話を聞かされているような錯覚に陥ってしまうのだ。
 井伏鱒二が重要な位置を占めているのも、私にとっては当然の事態である。増補版十四巻の『井伏鱒二全集』を、翻訳の仕事の合間に味読するという設定は狙い通りで、要は井伏鱒二の言葉への向きあい方が「翻訳」に近いことを、暗に示そうとしているのだ。「日本語らしい日本語」なるものは、最初から存在するのではない。ある段階を踏んで、はじめて滲みでてくる現象なのだ。名篇「貸間あり」の近傍に、ロブ=グリエの『ニューヨーク革命計画』や安部公房の『箱男』、さらには森敦の『月山』、藤枝静男の『田紳有楽』など、《現代にせもの小説》の系譜がならべられるのも、おなじ視点からの選択だが、とくに注目すべきは、作中に登場する代書屋という商売のあり方だろう。自分を消し、他人に成り代わって文章を認めて、それを売る。言葉に本来そなわっているどさくさを、どのように統御していったら一個の作品が生まれるのか。その過程を代書屋ほど生な形で体験する者はいない。《にせもの》に力を吹き込んでべつのなにかに仕立てるひと、それが代書屋であり、代書屋を動かす語り手であり、語り手を操る作者でもある。
「貸間あり」について、「明らかに、これは、作家が、言葉だけで、綿密に創り上げた世界であり、文章の構造の魅力を辿らなければ、這入って行けない世界である」と述べた小林秀雄の表現を引き継ぐように、平岡先生は、「ここで言う《にせもの》性とは、ほんものがあってそれの模倣がにせものという普通の意味の《にせもの》性に加えて、ほんものも見方によってはにせもの、したがってすべてがにせものだとすれば、ある意味ではにせものもほんもの、要するにほんものでしかないほんもの、にせものでしかないにせものなどないのだという意味での《にせもの》性」でもあると語り、登場人物の擬態や演技から発して、『駅前旅館』で頻発される綽名という「暗号のような特殊言語」に対する井伏の鋭敏な感覚に注意をうながす。
 そうした必然としての《にせもの》性は、作品構造にも波及する。「井伏鱒二の作品は、ほとんどつねに古文献か聞き書か他人の書いた記録を含み、しかも大抵は話の興味の大部分をその一次的物語が支えているから、彼の小説は入れ子式になにかに一次的物語を含んだ二次的物語の様相を呈している」のだが、「作者はその一次的物語もあくまで物語であって、現実の忠実な再現ではないということを承知している」。これはほとんど「神屋宗湛の残した日記」の解説だといってもおかしくないのではないか。幾重にも重なっていく語りの層が、焦点を絞らせないままに繁茂し、成長して、最後には自然な流れを獲得する。『黒い雨』の重松の日記のように、地獄を見た時間、それを記録した時間、読み返しつつ清書している時間など、いくつもの時間軸を交錯させることで、真と呼びうる核がどこにあるのだか、誰にもわからなくなっていくのだ。

《贋》という形容は、ほんものとくらべて価値の卑しいものとみなす軽蔑を意味せず、ひとつの仕草なりの一次的シニフィエと二次的シニフィエとのメタ言語的背反を楽しんでいるということで、そこからこの作家のユーモアと称せられる無限の優しさが出て来る。

 贋もの、作りものの追求が、逆に生身の人間としての魅力をも十全に発揮してくれることの奇蹟。こうした読解は、本書の他の作家たちにも等しく適用される。たとえば、森敦の、円を描いたときの境界が外にあるのか内にあるのかを問うような思考も井伏鱒二に重なり、「もどき、だまし、もどき、だまし」という『初真桑』の台詞と響き合って、言葉が言葉を産んでいく運動のなかで現出する、《どこか度を越した》なにか、《余り》の力と結びつく。もどきとだまし。本物と偽物。両者の交錯、すれちがい、重複のなかから、客観的な視点としての、「卑怯者」、もしくは「意気地なし」の顔が生まれる。

 卑怯者や意気地なしであることに積極的価値を賦与しているからではなく、むしろ自分を卑怯者ないし意気地なしと規定する価値体系の存在意義をも認め、しかしそれだけを楯にとってすべてを裁けば大切な何かがこぼれ落ちる、その何かも同じように意味あるものだとすれば、どちらをも《選べない》以上は、卑怯者と罵られ、意気地なしと蔑まれても仕方がないと諦めているということである。

IMG_5804.JPG 対立と矛盾を内包した宇宙。武田泰淳の小説では、主人公たちが「苦悩しながら同時に眺めることを希望する」。両者の径庭かどれほど広大かをわかっていながら、行動を起こす人とそれをじっと見ている人を、同時に生きようとする。それが破滅を回避させるほんものの卑怯者の力となるのだ。傍観が傍観で終わらないのはそのためで、吉行淳之介における、「いわば判断留保の、触角だけを頼りに対象の地肌とか感触とかをキャッチする姿勢」や、小島信夫の、気味の悪い、しかしまことに正当な「反完璧主義」にも、同様の目が向けられるだろう。
 しかし、本書において、批評家、フランス文学者の仕事と傍目にも密接に結びついているのは、安部公房である。それまでの流れからして、ここでは『箱男』に登場する「贋のぼく」に、どうしても言及せざるを得ない。世間でいうところの常識から降りたときに見えてくる「贋の」、けれど、じつは「本当かもしれないぼく」の姿。「箱男が、箱の中で、箱男の記録をつけている」状況をどのように認識するのか。「主人公であり話者、つまり認識者であるばかりでなく、記述者でもある」箱男の機能のうち、最も重要な点は、「書いているぼくと 書かれているぼくとの不機嫌な関係」だ。見ることが見られることに、書くことが書かれることに、本物が偽物に入れ替わるときに生まれる動力。これはまた、医者と患者の区別が曖昧になる『密会』でも語られるし、本書から離れれば、武田泰淳の『富士』を持ってきても通じる視座だろう。
 リアリズムを標榜する小説のほうが、むしろ「感性を抑圧し、想像力の展開を妨げる」。これに対し、安部公房の手法は、「『まことらしさ』の鉄則を無視しても感性の呼びかけを受けとめ、自同律や因果律を無視してでも想像力のダイナミズムを尊重するという意味で、いっそう自由で生産性の高い方法なのであり、行きどまりの隘路(あいろ)に立ち往生している現代小説にたいして提出された、ひとつの強力な脱出プランの見本なのである」。「行きどまりの隘路に立往生している」といったたぐいの断言は、少々大げさにすぎるかもしれない。ここには論のための論、語る楽しみのために語っている部分もある。立ち往生していない小説が安部公房ひとりによって書かれているなどと、本気で考えているわけではないからだ。でなければ、井伏鱒二の「前衛」ぶりを熱っぽく語ったりはしないだろうし、小説を救うのは小説家だけではなく、批評家であり読者の成熟にもよることを、自分自身で示そうとするはずもないだろう。言葉をもってつくりだす小説の「作品内部の要素からの連想によって派生する」想像力の力、偶然を必然にかえ、「全体としてどこにもノイズのない、仕方なしにパテで填めてつないだような隙間のない、想像力の論理そのものの形象化とでもいった作品に結晶している」ことの驚き。深い共感に充ちた読みによって、平岡篤頼はそれを示し、論じ、話したのである。
 小沼丹をめぐる「温かい懐疑派」でも、それは立証される。実名で登場する人物たちでさえ、語り手=作者によって内なる光景に変換され、彼らの言動がそのまま語り手自身の《?》となって、それがやがて、《……かしらん?》という、自分自身に対する問いつめにすりかわり、結局、「肯定形はもちろんのこと、否定形でも断定出来なくなってくる」。『文学の動機』所収の、「否定のばね」と題された小沼論は、この「ないないづくし」でつづられていく「判断停止」の語法が、どれほど小説の世界を魅力的にしているのかを語ったものだった。後藤明生については述べられていないけれど、おなじく『文学の動機』の、「行き場のない土着」と題された章では、その世界の基盤にある《私》をめぐって、こう述べられている。

 もともとアイデンティティーとは自己同一性、つまりAがAであってAでないものではないこと、自分が完全に自分に重なることを意味し、だからそれは《ある》か《ない》かどちらかでしかなく、《ない》から《回復》しようとすれば《ある》状態に戻れるというものではなく、《回復》しようと図るその主体の態度がまさに自分が自分に重なることを妨げるという厄介な代物なのであって、ちょうど《私は私である》と書けばただちにそれを書くもう一人の《私》の存在か想定され、そのため主語の《私》も主格補語の《私》も正確には《私》でなくなるのと同じで、《自己のアイデンティティーを回復する》などという命題じたい自己撞着以外の何ものでもない。

 本書では、「前衛の意味」でこの視点か応用されている。《私》がなくなって《彼》になる。そして、《彼》が《私》にもなって両者が互い違いにかさなり、ついにはすばらしい《にせもの》になる。その土台にあるのは、人生体験であるより先に、言葉なのだ。
 厄介なのは、言葉を即物的に見ていったん精緻な分析をほどこすという、ごくあたりまえの主張が、外国文学者特有の、もっといえば、フランス文学者特有の病弊のように受け取られていたことだった、と私は思う。これはいまだに解消しえていない、根強い誤解である。なにをどう描き、どう主張しようとも、一個の作品は、言葉の集積からなっている。しかも部品としての言葉のひとつひとつは、現実に照らし合わせてかならずしも盤石ではない。それを承知で格闘するのが作家と呼ばれている者の仕事なのだが、その意識があまりに先鋭化されすぎると、悪い意味での《にせもの》に陥る危険性もある。あんなに大切していた安部公房の、晩年の作品に対する若干の留保は、そうした認識に立つものだ。平岡文学の枢要は、文学を活性化し、言葉を豊饒にしていく、《正しいにせもの》に対する擁護である。ふたたび『文学の動機』を引けば、序章がわりの「後ろ姿と沈黙」には、こう書かれていた。

 文章にも横顔や後ろ姿があるではあるまいか。そしてすぐれた批評というのは、作者の意図や主張、作品の構成や文飾を正面から眺めるばかりでなく、横や後ろにもまわってその立体的な生きたイメージを結ぶような批評ではないだろうか。

 平岡篤頼のなかでは、たとえば志賀直哉の作品群が、人生の機微をとらえる心境小説、といった教科書的な言い方で片づけられることは一度もない。たとえ結果として、そうとしか表現しようのない世界が現出したとしても、そこに至るまでの道筋を見極めようとする読み手の精神のありようもまた、ひとつの人生を構築しうるという立場で、言葉を言葉として即物的に運用し、同時に、それだけではけっして説明のつかない作品全体の力を、素直に認めるのである。それは、教室で実際に聴かされた幾人もの作家への敬愛の念といささかも矛盾しないし、井伏鱒二の文学を語るときの熱い口調ともぴたりと一致する。

 物にたいして言葉が贋ものであるから、彼〔=井伏〕は言葉に溺れず、といって物に一層近づけようとして言葉を捩じ伏せようともせず、適当に距離を置きながら適当に制御し、つまり物離れすることを許しながらたえず物と接触させ、そうすることで日本語をのびのびと自由に発動させるので、われわれは彼の作品を読むたびに「日本語らしい日本語」を感じるというわけであって……(略)。

「ほんもの/にせもの」といったわかりやすい図式で、文学のすべてが整理されるわけではない。むしろそういう読みから、否応なしにはみ出てしまうものに、平岡篤頼の目は向けられていた。反転の図式をどんなに理解できても、また文学作品が言葉から成り立つ世界だといくら言いつのっても、一個の作品を作品として成立させている言葉の律動や、その背後からゆったりとたちのぼってくる人間への愛着は、すっきりと解説できない。そのジレンマが、平岡先生に、《もうひとつの批評》でもある《小説》を選択させたのではなかったろうか。それは逆に、《小説》もまた《もうひとつの批評》へと食い込む力を持っているということの証でもある。
 本書のタイトルになった「記号の霙」は、昭和八年に書かれた井伏鱒二の、『女人来訪』からとられたものだ。新婚間もない《私》のところへ、八年前に求愛した岡アイ子という女性が訪ねてくる。アイ子は、過去の想いを封印しながら、新妻と愛想の良さを競うように「屈託のない会話という猿芝居」を演じる。

 ものを言へばその言葉がみんな一つづつ小さな記号みたいなものに変形して、この(?)の記号や(!)の記号の形にかたまるやうな気がしていけない。そしてぱらぱらと霙のやうに幾つぶも、その記号を撒きちらしたやうな気持で、きつとその(?)記号や(!)記号は私の肩や胸に降りそそぎ、それは彼女が汽車で発つてしまつてからも消えないかもしれない。けれど記号の霙を撒きちらしたわけは、彼女の胸のなかにその記号の大きな母体が八年前から発生してゐたからだといふのであつた。

kigou.jpg 文学のなかでは、霙は解けない。びしゃびしゃとした、不快なものにはならない。霙は霙のまま形と性質をうしなわずに、まったくべつのなにかを生み出すのである。素材はおなじでも、霙の撒き方、受け止め方、組み立て方は、みなそれぞれちがう。できあがってくるものも千差万別だ。語っているうちにいちばん最初にあった霙の塊を忘れてしまっても、忘れたまま、記号は記号から言葉に育ち、その言葉の集積が、ありもしない《私》を生み出す。このありもしない《私》の、なんと《私》的であることか。
「現実というのはケウトイものですよ」と、「消えた煙突」の平野は語っていた。焼け跡と高層ビルが二重写しに見えてきて、どちらがほんとうなのかわからなくなる。焼け跡が見えれば、十六歳の少年のままだし、高層ビルが見えれば、五十歳の中年男になる。後者に立てば十六歳の自分なんて存在しなかったことになり、前者に立ったとしても、それは五十歳の男の想像のなかにしかない幻影になる。振り返ってみると、私が平岡先生のクラスの正式な登録者となりえたのは、三年のときに履修できた、デュラスの『愛』の訳読だけだった。出席者数名というがらんとした教室で、ガリマール版のテキストを手にしたまま、平岡先生は、デュラスが投げつげる、そのたびに新しく生まれ変わっていく奇妙な記号の霙を受け止めていた。目的語のない動詞を、目的語のないままに浴びつづけること。彼女は、見ている。彼女は、思い出す。彼女は、叫ぶ。しかし余白のたっぷりとられた頁の、わずかな活字のつぶてを、甲高い声をたよりに追っていたあの教室は、ほんとうに存在したのだろうか。そもそも、ほとんど授業に出なかったはずの私が、教室の雰囲気をこれほどはっきり覚えているはずがない。だとすると、小説家平岡篤頼に出会い、フランス文学者平岡篤頼の教えを受けた十代の自分は、四十代なかばに達した中年男の妄想のなかにしかない幻なのだろうか。
 いや、そうではない。なぜなら、私の身体のあちこちに、まだそのとき浴びた記号の霙が残っているからである。お腹にも、足にも、腕にも、そして、背中にも。ふつうなら見ようともしない自分の言葉の背中を鏡に映す勇気が、ほんのわずかでも私にあるとしたら、それはまちがいなく、消えなかった煙突のおかげであり、解け残った記号の霙のおかげなのだから。

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